「神の国での再会」

     水野吉治

新約聖書マタイによる福音書22章23〜33節
新約聖書マルコによる福音書12章18〜27節
新約聖書ルカによる福音書20章27〜40節

 ユダヤ教では、子をもうけないで死んだ長男があれば、次男は、兄嫁と結婚して子をもうけねばならない、次男が、また子をもうけないで死んだ場合、さらに三男が兄嫁と結婚して子をもうけなければならない、という定めがありました。
これをレビラト(レビレート)婚(levirate婚。逆縁婚(ぎゃくえんこん))と言います。
「レビラト」は、ラテン語で「夫の兄弟」を意味する「レビール」から来ています。
この風習は、ユダヤ民族以外にも、パンジャブ、モンゴル族、匈奴(きょうど・フン族)、チベット民族などにも存在すると言われます。
これに対し順縁婚(じゅんえんこん)・ソロラト(ソロレート)婚sororate は、姉妹を意味する「ソロール」から来ており、妻が死亡した時、夫は妻の姉妹と優先的に結婚することです。

 ちなみに、仏教で、「逆縁」とは、
@仏に反抗し、あるいは、仏法をそしることが、かえって、仏道に入る因縁(いんねん)となること。
A自分の修行をさまたげる因縁。
B親が子のためとか、仇(かたき)に対してとかいう、逆の関係者のためにする供養。
を意味します。
「逆縁婚」はBの意味から転じて、下位の者が上位の者に代わって結婚するという意味に使われています。

 さて、イエス様に敵対するサドカイ派の人々が、イエス様をわなにかけようとして、次のような質問をします。

 「モーセのさだめたおきてによれば、『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』
(旧約聖書創世記38章8節・旧約聖書申命記25章5,6節)
となっていますが、かりに7人の兄弟がいて、長男が子がなくて死に、次男も三男も、それぞれ子がなくて次々死に、とうとう7人とも子がないままで死んでしまったとします。
復活の時、嫁は、7人のうちのだれの妻になるのでしょうか。」

 これは、サドカイ派が、復活というものはないと主張しているので、復活というものがあるとすれば、レビラト婚で結婚した7組の夫婦のうち、神の国では、どれが永遠の夫婦になるのかという問題が起こるのだ、と指摘して、「だから復活はない」という結論に導こうとするのです。

 イエス様は、サドカイ派の人々に対して、
「この世の子らは、めとったり嫁(とつ)いだりするが、次の世に入って、死者の中から復活した人々は、めとることも嫁ぐこともない。
この人たちは、もはや死ぬことがない。
天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
すべての人は、神によって生きているからである」
と言われます。

 結婚とは、あくまで、有限なこの世の関係であります。
その関係が、神の国にまで持ち込まれることはありません。

たしかに、肉体をもって生きているかぎり、夫婦という関係は存在し、夫婦の愛というものも存在します。
相手が死んでも、また神の国で再会できるだろうという確信があります。
それが愛です。

しかし、その愛は、死を経(へ)た愛ですから、有限なこの世の愛ではありません。
この世を超えた永遠の愛です。
また、特定の相手は、神の国の中では、この世の存在とは違った姿で存在するのです。
「存在」とは言うものの、「ここにいる」とか「あそこにいる」と言えるような形では存在しません。
神の国が「ここにある」とか「あそこにある」と言えるような形で存在しないのと同じです。
たしかにあるのですが、位置だけあって、面積のない、無の一点としてのあり方をしています。
聖書で、
「霊の体」・「復活の体」
(新約聖書コリントの信徒への手紙一・15章35〜49節)
として述べられているあり方です。

そのあり方、つまり「霊の体」・「復活の体」や神の国のことは、有限なこの世の言葉では、理解することも、説明することもできません。
あえて理解し、説明しようとするならば、「神話という形」を取らざるを得ません。
だからといって、「霊の体」・「復活の体」や神の国が「神話」であるわけがありません。
それはあくまでも「実在」なのです。
しかし、その実在は、「神話という形」を取らなければ、理解も説明もできないのです。

神の国の現実を、「神話という形」で理解し説明しようとすれば、矛盾や問題が起こるのは当然です。
だからと言って、「霊の体」・「復活の体」や神の国が存在しないということにはなりません。
存在しないのは、移ろい行き、すぐ消え去る「肉の体」であり、「古いいのち」であり、「この世の国」なのです。
「肉の体」や、「古いいのち」や、「この世の国」は、いわば、影のような存在です。
過ぎ行くものであり、実体のない、はかない存在です。

死んだ、愛する人が存在しないのではなく、愛する人が、「肉の体」を持ち、「古いいのち」に生き、「この世の国」の関係をそのまま保っていると考えるのが間違っているのです。
したがって、私たちが死んだあと、神の国で、愛するものとふたたび会うことができるということは、事実であっても、この世の関係そのままで、生前の記憶を保持したままで、肉の体において、ふたたび会うのではありません。
私も相手も、復活のいのち・復活の体として、新しくされて、会うのです。
まったく新しい出会いであり、新しいいのちに生かされている同士の出会いなのです。
それを、イエス様は、
「天使のようになる」
とおっしゃっています。

愛する人の写真を飾り、それを見て、愛する人を想うということは、意味のある行為です。
しかし、その愛は、もはや肉の愛ではありません。
肉は死んだのです。
そうでなければ、古いいのちのままの、いつかは朽ちてゆく愛なのです。
今や、私も相手も、霊のいのちに生かされているのです。
肉の愛からすれば、愛する相手以外は、すべて他人でした。
しかし、今や、他人は一人もありません。
見渡すかぎり、霊のいのちに生かされている、親しいものばかりです。
特定の相手だけを愛する愛は、もはや死んでしまったのです。
生きているのは復活のいのちだけです。
「すべての人は、神によって生きている」
とイエス様が言われるように、神によって生きているもの同士の間には、特定の相手に対する愛はありません。
特定の相手との再会は、「特定の相手に限られた再会」ですが、すべての人との再会は、「特定の相手を超えた、喜ばしい、永遠の再会」です。
もはや憎しみも愛も超えた、復活のいのちに生かされている者同士の再会なのです。