いつごろから、人々は、イエス・キリストの降誕を、12月25日に祝うようになったのであろうか。
紀元4世紀ごろ、太陽神崇拝のミトラス教が、ローマ暦で冬至に当たる12月25日を、不滅の太陽神の誕生日としていたが、キリスト教会は、キリストこそ、真の正義の太陽であるとの考えから、この日をキリストの降誕の日として祝うようになったといわれる。(岩波キリスト教辞典)
異教の冬至祭に起源を持つ、このようなクリスマスは、さまざまの世俗的習俗を取り入れて、現在のような祝祭に発展してきた。
クリスマス・ツリー、柊(ヒイラギ)、リース(アドベント・クランツ)、樅(モミ)の木、サンタクロース、その他、ほとんどのクリスマス関連の風俗は、聖書に根拠を持たないものばかりである。
現在のクリスマスは、商売の機会・手段として利用され、ますます華やかで、きらびやかな衣を着せられて、世俗のおどりをおどらされているのである。
しかし、聖書に告げられている、本当のクリスマスのメッセージは、「インマヌエル」である。
「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という意味である。
新約聖書マタイによる福音書1章23節に、
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
と記されている。
「インマヌエル」は、救い主イエスの別名である。
我々人間は、暗黒の中で、死の恐怖にふるえている。
それを、まぎらわそう、ごまかそうとして、イルミネーションをぴかぴか光らせ、にぎやかにクリスマス・キャロルをかなでる。
その光も音も、いつかは消え、死の暗黒と静寂とが、自分を飲み込む時が来る。
その時が、次の瞬間であるかも知れない。
風前の灯火である、その自分にとって、本当の救いは、「神は我々と共におられる」というメッセージである。
神が共にいてくださる。
これ以上に心強いことはない。
自分の努力も頑張りもいらない。
ただ安心して、「インマヌエル」にまかせておけばいいのである。
「インマヌエル」から、こぼれ落ちることはない。
「インマヌエル」にしがみつく必要もない。
「インマヌエル」から逃げだそうとしても、逃げた先々に「インマヌエル」が待ちかまえている。
見渡す限り「インマヌエル」である。
人生と世界は「インマヌエル」で完結している。
地獄に落ちたとしても、そこも「インマヌエル」の世界である。
この世に「インマヌエル」でないところはない。
生きても、死んでも、「インマヌエル」である。
「インマヌエル」の誕生を祝うのがクリスマスであるとすれば、何も12月25日だけ祝えばいいのではない。
聖書には、イエス・キリストが12月15日に生まれたなどと、どこにも書かれていない。
イエス・キリストは、毎日、私たちの中に生まれ続けている。
毎日毎日がクリスマスであるべきである。
明日も明後日も、永遠に、イエス・キリストは、私たちの中に生まれ続けているのである。